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残されたラブレター

2011/12/09
ガーデンシクラメン

12月8日は 父の命日。まる10年になります。
小雨でしたが お墓参りに行ってきました。

父は 頑固おやじでした。
子どもの頃、父は怖いイメージ。
と言っても叩かれたことは なかったと思います。
ただ 父の言うことは絶対であり、母も父に従う人でした。

口答えは 絶対にしてはならない。

小学校、中学と授業参観に来てくれたこともありました。
父は 学校に来るときは 必ずダブルの黒のスーツ。
そして 何故か 黒ぶちの眼鏡。(たぶん 度は入ってなかったかも?)

たいてい・・・・学校の先生に間違えられていました。

山口県では 炭鉱夫をやっていたので ガッチリ体型で貫禄があったのだと思います。
私が思うに・・・学校の先生というよりは ヤ○ザ屋さんに見えた(▼▼#)∬

実際・・・喧嘩は強かったらしい^^;
弟分のように可愛がっていた人と 本物のヤ○ザやさんとの喧嘩の仲裁に入って・・・
刺されて病院送りになったこともあったようで・・・( ̄⊥ ̄lll)
嘘みたいなホントの話です。

白黒 はっきりさせる人。それが父。

ものすご~く硬派な人間でした。




が・・・・・・・・・・。

母が亡くなった後、文字通り「遺品整理」をしていた時。
母のタンスの奥から 小さなポーチみたいなものがあり、その中にハンカチサイズに切ったような風呂敷包みが出てきました。
岐阜へ来てから 8回ほど 引っ越しを繰り返した我が家でしたが初めて目にしたものでした。

風呂敷の色も 変色していて・・・恐る恐る結び目をほどくと・・・
中には 何通かの古い封筒が出てきました。

その封筒の中は また 茶色く変色した手紙でした。

それは 父が母に宛てた ラブレター。
晩年ももちろんでしたが 若い頃から達筆だったことが解りました。
万年筆の時もあり、鉛筆の時もあり・・・

父は 自分のことを「小生」と書いていました。(お~~っ!ふるっ!)

日付は・・・昭和29年4月29日が最初のもの。封筒に貼られた切手から解りました。
差出人のところは 住所は書いてあり、名前は T.Nとイニシャルで ^^;なかなか 洒落てましたね。

手紙の内容も まるで小説の中で出てくるような文章でした。
読むのに ちょっと難しい表現もあって・・・。

全部で10通。今も 私の手元にあります。
母は 引っ越しのたびに こうして この小さなポーチをタンスの中に忍ばせていたんですね。
父にラブレターをもらったことなど 一度も話してくれたことはなかったのに。

手紙の内容は とても真摯な態度の父の様子が解るものでした。
でも、中には 何か問題が起きて 母に帰って来てほしいような言葉も・・・^^;(けんかしたのかな?)
それでも とても 情熱的に母を愛していたのだと感じました。

母は 最初 父親から反対されていたようでした。
それを 父が一生懸命説得して・・・。「着のみ着のままで来なさい」みたいな。。。

手紙の最後には ”小生の星  文枝様” なぁ~んて (* ̄(エ) ̄*)ポッ

(父ちゃん!やるじゃん~!)


こんなふうに 父と母は出会って 恋をして。。。
兄、私、弟をハサミ一本で 私たちを 育ててくれた。

一度もこういう話を聞いたことがなかったけれど
遺品整理でこのラブレターが出てきたことで 私たちの知らなかった父と母の生きた証を見た気がします。


料理も掃除も苦手だった母だけど 一生懸命生きてくれた。

30年近く 父の闘病生活を支え
そんな中でも 何とか保護団体みたいなところで たくさん友達を作って 年に数回バス旅行などもちゃんと楽しんでいた。
私の娘も小さい頃、母の旅行にしょっちゅう一緒に連れて行かれて(笑)
バスの中でのカラオケでおばちゃんたちが歌う演歌を 自然に覚えていた。^^;

父は自分のことは 出来ていたので 食事の支度をしておきさえすれば
 母は お泊まり旅行も 私の娘と一緒に出かけていった。

母は そんな時は 本当に楽しそうだった。お土産もいっぱい買って帰ってきた。
おしゃれが大好きで 私でも着れそうなデザインの服をよく買っていた。
宝石が大好きで 仕事で頑張ったご褒美と言いながら 月賦で指輪などを買って・・・
「どうせ これは お前のものになるんだし~♪」などと言いながら(笑)

今、こうして 色んなことを思い出してみると・・・
母は いつも笑っていた。
初孫である私の娘を 本当に愛おしそうに可愛がってくれた。

本当に 幸せって思ってくれてたのかなぁ?

今 お墓の中で父と母は二人きり。
仲良くしてる?

大事なラブレター、私 ちゃんと持ってるからね。
一通ずつ、新しい茶封筒に入れて 日付も書いてあるんだよ。
理容師健康手帳もあるよ。可愛い笑顔の写真だね。
「小生」さん、文枝さんをよろしくね~!


********************

ちょっと ワンコお休み続きで 重い感じになってごめんなさい。

夕方、いのっち りりあ やってきました。(幼稚園 お休みだって)
また バタバタしそうです(笑)
日曜日まで・・・・
ワンコたち 頑張るんだぞ~~~!


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『アントキノイノチ』

2011/12/07
月曜日に 映画『アントキノイノチ』を見てきました。

先月、たまたま テレビでこの映画の『アントキノイノチ~プロローグ』というのが放送されていて
それを見たら どうしても見たくなって 友達と二人で行ってきました。



泣けました・・・。

それも ハラハラと涙がこぼれるというのではなく
口元を押さえないと 嗚咽がもれてしまいそうで・・・。

遺品整理という特殊な仕事をする主人公たちを見て 色んなことを思い出しました。
映画の中での留守番電話。遺品の中に残された品々・・・。


平成13年に私の父が亡くなり、それを追うように平成15年に母が逝きました。
誰もいなくなった実家を 私の兄たちと遺品整理、そして 県営アパートだったので 引き払う為に隅々まで掃除をしました。
土日は 兄たちと一緒に。
平日は 1人でコツコツと通って片づけを続けました。
(※ このことは また 別の機会に書きますね)

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(※ ここからも 以前に書いたことがあると思いますが・・。お許しくださいね)


子どもの頃、父の仕事の都合で 何度も引っ越しをして・・・
中学生のときから 結婚するまで ここで一家5人で暮らしました。

父が病気の為、身体障害者となり その後、母が我が家の家計を支えてくれました。
手術と入退院を繰り返し、何度も死の淵を彷徨った父。
それでも 奇跡的に復活してきた父。
父は 決して寝たきりにはならず、自分のことは自分で出来ましたし 大好きなお酒も毎日飲めました。
量は 一応 決められた量だけをちゃんと飲んでいました。
時々 私たちが行くと 嬉しいのか 量が増えて 母に叱られていましたけど^^;


母は 30年近く 頑固おやじだった父を看病し・・・最期を看取りました。

父が亡くなった後、兄が母に一緒に暮らそうと言ったのですが 母はそれを断り
1人暮らしを選びました。
理容師として 70歳まで現役。
最初、腰が痛いと整形外科にかかり コルセットを付け・・・そして入院。
貧血がひどいということで 精密検査。


私たちから見たら これからは 母も少し自分の為に生きて欲しいなと思っていた矢先・・・胃癌が見つかり・・・
末期でした。
手術も出来ない状態と言われました。
母には 胃潰瘍だったと伝えて・・・。

がん宣告を受けて・・・2週間後。

母の最期は 誰一人 間に合いませんでした。
病院から連絡を受けて 夜中に駆け付けた時には 大量の吐血の後の見られた吸引用のボトル。
赤い染みのついたシーツ。

触れれば まだ どこもかしこも暖かかった。
母の顔も 手も 足も・・・・
温もりが残っていた。

私が病院に到着したとき、まさか 母が息絶えていたなんて思いもしませんでした。
眠っているんだと思いました。

先に着いた弟が 泣いているのを見て・・・。
初めて、点滴の管がないことに気付きました。

「え?・・・・」
「血をいっぱい吐いたんやと・・・」

その時に 初めて 母が苦しんで逝ったのだと知りました。



それからは 毎日、毎日 後悔の日々でした。
父の時は ずっと 病院と縁が切れない人だったので
どこかで 覚悟が出来ていました。

でも、母は 歯医者さえも 60歳過ぎて初めて行った人でした。
内臓関係で どこが痛いなど聞いたこともなく、
実際、胃癌が解ったときも「胃潰瘍」だと伝えながら
「胃、痛かったの?」
「いいや 痛くなかったよ」と答えてました。

亡くなった後、母のバッグの中から 市販の胃薬が出てきて・・・
(痛かったんやん・・・・)

整形で入院して 退院すると 医者が止めるのも聞かず、すぐに仕事に復帰していた。
母1人で やっていた県の事務所内での「とこやさん」でしたので
「お客さんが 待っとるから」と。
でも、さすがに しんどかったらしく 午前中で切りあげてきたらしい。

そして また 病院に逆戻りになった。

私は あの頃、毎日 病院に通い・・・
母の足の裏をマッサージしました。
私は 若い頃から 肩コリ症だったので いつも母に肩をもんでもらっていました。
ちょうど、リフレクソロジーというのが流行っていて
もしかして これだけでも 母の病気が良くなるかも?とか 考えながら・・・。
痛みが薄れるかも?とか・・・。

医者から聞いた余命は
最初 一年・・・。その二日後には 半年。
そして すぐに 持って 2~3か月と言われました。

医者の言葉が 頭の中をぐるぐるぐる・・・・

それでも 母とは たわいもない話をしたり 笑ったり・・・。
母が入院中に 私はお父さんの仕事の関係で一緒に一泊で東京へ行ったのですが その時に 母に指輪を貸してもらって・・・あれから ずっと私の指にあります。

入院中に 父の墓石が立ち、
サラシを巻いたままの墓石の写真を見せて
「早く 元気になって お墓見に行こうね」
墓地を決めるときも 母は元気だったし 一緒に決めに行ったんです。

私が帰る時間ごろになると
「けんたが待っとるから 早く 帰り~」と言ってくれました。



私は 本当に母を亡くして 初めて 自分が母の胎内から生まれてきたことを実感しました。
恋しくて 恋しくて・・・
会いたくて 会いたくて・・・。

何一つ 親孝行をしてこなかったことを後悔し続けました。
取り返しがつかないことを実感しました。

母が 入院中、山口県から母の姉が ずっと病院に付き添ってくれていました。
その 叔母さんが 母が亡くなって 泣いてばかりいる私に言ってくれました。

「ふみちゃん(母の名前)は幸せやねぇ~娘や息子が ほんとに良くしてくれて」
「うん、ほんと!幸せやったよ~」

そう2人で話していたことを教えてくれました。
私は 自分が 何もしてこなかったのに
母が 「自分は幸せやった」と言っていたことを聞くことが出来ました。
私自身が 元気で生きてこれたことが 母にとって 幸せだったのでしょうか。

私たち 兄弟が 健康で元気で日々を暮らしていることが
母にとって 一番の幸せだったのでしょうか。

そんな 言葉をもらってもいいのか・・・。

感謝するのは 私たちであって・・・。

母のイノチをもらって 私たちは 生きている。

母がいたから・・・父がいたから・・・・
私たちは 生きている。

このイノチを 繋いでいくのが 私のできること。

絶対に無駄には してはいけないね・・・。

「母ちゃん・・・私 元気だからね。頑張ってるからね。空から見てる?」



09:56  | コメント(10)
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